松井優典 まついまさのり
和歌山県出身。星林高校では甲子園出場。1968年に南海よりドラフト3位で指名され入団、捕手から内野手に転向。1975年にヤクルトへトレードで移籍。1979年に引退。引退後は、ヤクルトにて14年間マネージャー、当時の野村克也より指導者としての適性、才能を見出され、1994年には二軍監督に、1995年~1998年にはヘッドコーチに抜擢。ヤクルト黄金期を野村克也監督の参謀として支えた。野村克也監督には「オレがヤクルトで育てたのは古田ではなく、松井だ」と言わしめた。1999年、野村克也監督が阪神タイガースの監督就任に伴い、松井も阪神へ移り、ヘッドコーチに就任。野村克也監督退任後は、同球団の編成担当として活躍。2004年秋、50年ぶりのプロ野球新球団、東北楽天ゴールデンイーグルスの誕生と共に、同球団のヘッドコーチに就任。2006年より、再び野村克也監督とタッグを組み、二軍監督を歴任。銀次など、現在日本を代表する選手を数々育て、その「人間教育」には定評がある。2011年からは、再び古巣のヤクルトにて二軍育成コーチ兼寮長を務め、その後ファームディレクター等、2015年の優勝の中心選手となる山田哲人など若手選手を多く育てた。2014~2015年はヤクルトの編成部長として、チームの強化、選手獲得に尽力、2015年はリーグ優勝に貢献。予算が限られている中、他球団との競争に勝ち、球団史上初めて1シーズンで2人のFA選手(日ハム・大引、千葉ロッテ・成瀬)を獲得した。
出身・ゆかり | 和歌山県 |
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職業 | スポーツ関連、監督・コーチ |
出演形式 | 講演、トークショー |
講演ジャンル |
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主な講演テーマ
経歴
1950年 | 和歌山県出身 |
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1968年 | 和歌山県立星林高等学校にて春夏の甲子園に出場 |
1971年 | 三塁手として初の先発出場を果たす |
1975年 | ヤクルトスワローズに移籍 |
1979年 | 現役引退 |
1994年 | ヤクルトスワローズ二軍監督に就任 |
1995年 | ~1998年 ヤクルトスワローズ一軍ヘッドコーチに就任 |
1999年 | ~2001年 阪神タイガースヘッドコーチ(2001年はファーム統合コーチ兼任)に就任 |
2005年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス二軍監督に就任 |
2006年 | ~2009年 東北楽天ゴールデンイーグルス二軍監督に就任 |
2011年 | ~2013年 東京ヤクルトスワローズ二軍育成コーチ兼戸田寮長に就任 |
2014年 | ~2015年 東京ヤクルトスワローズ編成部長に就任 |
2016年 | 東京ヤクルトスワローズファームディレクターに就任となったが退任 |
プロ野球に入団後、選手としてより、「野村監督の懐刀」と言う印象が強い。ヤクルトの黄金期、新球団楽天の初のクライマックスシリーズ進出等、野村克也監督の横でその快進撃を支えた。野村監督と言えば「野村ノート」、「ID野球」などが有名だが、松井氏いわく、「それはあくまでノムラ野球の端っこの話」だそうだ。体力、気力、知力などを合わせた「人間としてのトータル」を試合に向けて準備するしかない、と言う話はビジネスマンにも通用する話。
一方で、二軍監督などファームでの指導歴が長く、またマネージャー等の裏方も経験しているため、その人間教育に定評がある。その後の黄金期を支える若手(ヤクルト=山田哲人、楽天=銀次etc.)を数多く育てた。
「ノムラ野球を自分が語るのは僭越」と謙遜しながら、40年近く野村克也監督の側近として支えた経験から、人材育成論、上司論、組織論のエッセンスをお届けします。
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